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2004年11月8日
「オッス!おいらガード下の靴磨き」
こんなせりふは昭和30年代生まれまでにしか実感できないかもしれません。
「人は立場からのがれられない」
いわゆる“三位一体の改革”についての、
昨日の中日新聞社説を読み、ふと思い出しました。
今はもう手元になく、うろ覚えなのですが、
27〜8歳の頃読んだ、司馬遼太郎氏の小説『峠』の本文かはしがきに
このような主旨のことばがありました。
幕末に越後・長岡藩の家老となった河井継之助の生涯を描いたもので、
私はたいへん感銘を受け、川崎からバイクに乗って長岡まで墓参りに行きました。
若かったな〜あの頃は・・。
継之助は中級武士の家に生まれたが開明思想の持ち主で、
幕府の体制、士農工商の身分などが崩壊することを予見。
しかし先が見えすぎていたためか、藩の組織にはなじめず失職。
江戸や横浜、西国に遊学し、長崎や佐賀のにぎわいをみて、
いつか西国諸藩が台頭することを予感していた。
ところが藩の人材不足のため継之助は家老に取り立てられ、藩のために働くことに。
そして見事に、借金で疲弊していた藩政を立て直す。
いよいよ幕末、大政奉還をみて継之助は藩を武装中立すべきと考え実行を図る。
戊辰戦争となり、官軍は会津藩討伐に向けて長岡に迫る。
徳川譜代であった長岡藩は官軍につくか幕府軍につくかの決断せねばならない。
継之助は、会津にも薩長にもつかずに中立を守り両者の間に立って仲介し、内戦を終わらせようと画策する。
官軍に嘆願し談判したのが小千谷。『小千谷談判』と称される。
しかし、この工作は官軍に受け入れられず、失敗。
調停が決裂した以上長岡藩は奥羽列藩同盟に加わらざるを得ず、北越戦争となる。
現代では、新潟県は『中部地方』の県ということになっていますが、
心情的に東北に向いていることがなんとなく感じられます。
新潟中越地震の報道を見ていて、「東北電力によれば・・・」と聞いて、「えっ、そうなんだ!」とちょっとビックリ。
地震とはまったく関係ないことで、被災地の皆さんには申し訳ない。
長岡城攻防戦で敗退し城は陥落、会津へ敗走、
その途中の只見塩沢村で継之助は戦死を遂げる。享年42歳。
坂本竜馬と同じような働きができたかもしれぬような思想があったのに、
藩の家老として働き、生涯を終えました。
現在でも、継之助に対する地元・長岡での評価は二極に分かれているそうです。
“英雄”か“郷土を戦火に陥れた張本人”として。
そういえば二十年前、私が長岡駅の観光案内所で「継之助の墓はどこでしょうか?」とたずねたとき、
窓口にいた数人の方が怪訝そうに顔を見合わせていたことを思い出します。
どんなに先見の明や新しい発想を持っていたとしても、人は立場からのがれられない。
補助金削減、税源の地方への委譲、地方交付税の削減。
“三位一体の改革”は地方分権を進めるための改革です。
総理大臣、国務大臣、族議員、官僚・・・・
たくさんの、きっと子供の頃から秀才と呼ばれた人たちが関わって、
この改革を推進する側、阻止する側に立ってせめぎあっているようです。
ほんとうに、この国のこと、未来のために考えてくれているのでしょうか。
自分の立場や利害のためだけに働いているのではないでしょうねえ。
後の世になって、後ろ指を差されるようなことのないようにして下さいませ。
我われ国民も、じっくりこの改革の成り行きを見据えましょう。自分自身の問題として。