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“人はなんで生きるか”
作・トルストイ(1881年)より

【以下は、連載をまとめたものです。2003年秋】



「人は何のために生きるのか」
興味のある方(だれでもありますよね)
是非ご拝読ください。

“戦争と平和”や“アンナ・カレーニナ”などを著した後に、トルストイは

「何が本当なのか、人間はどう生きなければいけないのか、生きることとはどんなことなのか?」

と考え続けました。

そして、自分の過去の作品の価値を否定し、いくつかの“民話”を書きました。

最近寒くなってきたせいか、私(西村)は左上肢の痛み・しびれがひどく、 思考がとても鈍っています。

福祉住環境コーディネーター・1級試験の勉強意欲もわかず、

“依頼された仕事だけ細々とやってます”状態は相変わらずです。

コラムを書くにも、主張したいことがまとまりません。

それで、以前からいつかは紹介したいと思っていたこのお話を、 しばらくの間連載することにいたしました。

原作の章立てに従って12回に分け、毎日アップする予定です。



人はなんで生きるか-1

 ひとりのくつ屋が、女房や子どもたちと、ある百姓の家を借りて住んでおりました。

このくつ屋は、食べるのがやっとの生活で、毛皮の外套を女房と共用で持っていましたが、それももうすっかり痛んでいました。寒いロシアのことで、外套は必需品です。

 少しばかりのまとまった金が貯まり、貯金箱には紙幣で3ルーブル、村の百姓たちにも5ルーブル20カペイカ貸してありました。

 そこで、くつ屋はある朝、村へ毛皮の外套を買いに行く支度をしました。

ルバーシカ(ロシア風のゆったりした上着)の上から木綿でできた女房の綿入れジャケツを着込み、その上からラシャのカフタン(長外套)を引っ掛けると、3ルーブル紙幣をポケットにしまいこみました。

「百姓たちから5ルーブル返してもらったらこの3ルーブルに足して外套用の羊皮を買おう」と考えていました。

 貸した金を返してもらおうと集金に回りましたが、20カペイカしか返してもらえせん。

仕方なく、つけで羊皮を買おうと皮屋に行きましたが、断られてしまいました。

くつ屋はがっかりし、結局20カペイカでウォッカを飲んでしまい家路に着きました。

「毛皮の外套がなくてもウォッカを飲めばあったかいもんだ。しかし女房がくよくよするだろうなあ・・・」

 そうこうするうちに、曲がり角にある礼拝堂のあたりにやってきました。

ふと見ると礼拝堂の後ろのほうが何だか青白く光って見えます。もうあたりは暗くなる時刻です。

よく目を凝らして見ましたが、何やらよくわかりません。近寄ってみると・・なんと不思議なことでしょう。

人間に違いないのですが、生きているのか死んでいるのか、礼拝堂にもたれかかり、裸ですわったままピクリとも動きません。


 くつ屋は恐ろしくなりました。「だれかがこの男を殺して着物を剥ぎ取ったんだ。

うっかりそばに寄って巻き添え食ったらたいへんだ!」と腹の中で考え、その脇を素通りしました。そして振り返ると・・・

 死んだと思っていた男は壁から身を起こして、もぞもぞしながらじっとこちらを見ています。くつ屋はどきどきしました。

《何とかしてやりたいが、自分の服を脱いでくれてやるわけにもいかねえし、どうするかなあ。神様、ここはどうか見逃して、素通りさせて下せえ・・・》くつ屋は足を速めました。

そして礼拝堂を通り過ぎましたが、良心がとがめてきました。

くつ屋は立ち止まり、自分を責めました。

 
《これはいってえどうしたことだ、セミョーン?人がひとり災難に会って死に掛けているというのに、お前はおじけづいて、そのまま行っちまおうというのかい?それとも宝物でも取られるほど、金持ちになったのかい?おい、セミョーン、それは良くないぞ!》


 セミョーンは急いで男の方へ戻っていきました。


“人はなんで生きるか” -2

 セミョーンが男のそばによってよく見ると、力のありそうな若者で体には打ち身の跡もありません。

ただこごえて、おびえているようです。

すわりこんで、目を上げることもできないほど弱っているようです。

セミョーンが近づくと男は我に返ったように目を見開き、セミョーンをながめました。

セミョーンはその男の目つきを見ただけで男が気にいり、自分の帯をほどきカフタンを脱いで差し出しました。「何も言わなくていいよ、さあこれを着るがいい!」


 
セミョーンはこの男を起こして外套を掛けてあげましたが、手を袖に通す力も残っていません。

セミョーンは手を通してやり、帯を締め、自分のフェルトぐつもはかせてあげました。そしてこの男にこう言いました。


「これでいい、兄弟。さあ、少し体を動かして温まりなせえ。あとのことは、おれでなくてもみんながやってくれるだろうさ。さあ、歩けるかね?」


 男は立ったまま優しい目つきでセミョーンを見ていましたが、一言も口をきくことができません。


 「どうして黙っているんだね?こんなところでは冬は越せねえよ。家へ帰らなくちゃいけねえや。さあ、ここにおれの杖がある。これを使えばいい。さあさあ、しっかりしなせえ。」

  すると男は歩き出しました。しかも軽やかに、少しも遅れずに歩きました。歩きながらセミョーンはたずねました。

「お前さんは、どこのお人かね?」


「私はこの土地の者ではありません。」


「ここの者ならわかるさ。どうしてこんなところに来たかってことさ。礼拝堂にさ。」

「それは申し上げられません。」

「だれかにひどい目に合わされたんだろうね。」

「だれもひどいことなどしません。神様が私に罰をお下しになったのです。」

「そりゃあ、何もかも神様のおぼし召しにはちげえねえさ。それでも、どこかへ行かなくちゃなるめえ。お前さん、どこへ行くんだね?」

「私にはどこだって同じことです。」

 セミョーンは驚きました。

この男は言葉つきも穏やかで乱暴者でもないのに、自分のことを話そうとしません。

腹の中で「世の中には不思議なことだってあるものさ」と考えながら、男に言いました。


「まあおれのうちにでも行こうか。ひと休みすればちっとは楽になるさ。」

 肩を並べて歩いていると風が出てきて、セミョーンは酔いがさめ、ひどく寒くなってきました。

鼻水をすすったり、女房のジャケットの前をかき合わせたりしながら、こんなことを考えていました。

《やれやれ、とんだ毛皮外套さね。買いに行ったのに着ていたカフタンまでなくしちまって、おまけに裸ん坊まで連れてくるんだから。マトリョーナのやつ、さぞ怒ることだろうて》

 マトリョーナのことを考えるとセミョーナは気が滅入ってしまいました。しかし、この見知らぬ男の、礼拝堂のかげで自分を見つめていた眼差しを思い出すと、何となく心がうきうきしてくるのでした。


“人はなんで生きるか” -3

 セミョーンの女房は、早めに仕事を片付け、子どもたちと食事もすませて、こんなことを考えていました。

《いつ、パンを焼こうかねえ。あの人がどこかで昼食をすませりゃ晩にはそんなに食べないだろうし、明日の分も足りるわ。粉だってあと一食分しか残っていないし。》


マトリョーナはパンを片付けると、亭主のルバーシカにつぎをあてながら、どんな毛皮外套を買ってくるかと考えていました。

《ひょっとして毛皮屋にだまされなければいいんだけど。うちの亭主は気がいいんだから。

8ルーブルといえばちょっとしたもんだからねえ。去年の冬は、毛皮外套がないばっかりに随分苦労したからねえ。どこにも出られやしないんだから。

きょうだってあの人がみんな着てっちまったもんだから、あたしゃ、何にもないよ。それにしても、もう戻ってきてもいい頃なのに、うちの人はまさか飲み歩いてるんじゃないだろうねえ。》

 そこまで考えたとき、階段のきしむ音がして、だれかが帰ってきました。

入り口からはいってきたのはふたり連れではありませんか。セミョーンと、帽子もかぶらずフェルト靴をはいた百姓らしい男です。

 マトリョーナは亭主の酒臭いのに気付きました。

しかも亭主は長外套もなくジャケット一枚きりで、ただ黙り込んでもじもじしています。マトリョーナは胸が張り裂けそうです。

「お金をみんな飲んじまったんだ。どこかのならず者と飲み歩き、おまけにそいつを引っ張り込んできて!」

 マトリョーナがふたりを先に立てて部屋に入って見ると、その見知らぬ男は若くやせていて、着ている長外套は自分たちのものです

長外套の下にルバーシカを着ているようにも見えず、帽子もかぶっていません。

中に入っても身動きせず目も上げません。

マトリョーナは、「これはよからぬやつに違いない。それでびくびくしているんだ!」と考えました。

 セミョーンは別に悪びれもせず長いすにすわり、「おい、マトリョーナ、食事の支度をしろよ、どうしたんだ?」

 セミョーンは女房が腹をたてているのはわかっていましたが、どうしようもありません。見て見ぬふりをして、男の手をとって声をかけました。

「さあ、腰をかけないかね。食事にしようや。」男は長いすにすわりました。

 マトリョーナはますますむしゃくしゃしてきました。

毛皮外套は買ってこないし、たった一枚の長外套までどこかの裸ん坊に着せてしまって、おまけに家まで引っぱって来るなんて。

 「うちには晩飯なんてありませんよ。裸の酔っぱらいなんぞに食べさせていたらきりがありゃしないよ。」

「マトリョーナ、ことばを慎まんか、まず人の言うことを聞くもんだで・・・」

 セミョーンは女房に、飲んだのはたった20カペイカだけだ、というわかってもらいたかったし、この男と出会ったのはどこか、ということを話したかったのですが、マトリョーナは口をはさませません。

 マトリョーナは10年前からの愚痴まで持ち出してしゃべりまくり、とうとうセミョーンに走り寄ると、袖を引っつかみました。

「さあ、私のジャケツを返しておくれ。

たった一枚だけ残ったものまでわたしから引っぺがして自分で着てっちまって。ここへお出しよ、このあばた面。くたばっちまえ!」

 セミョーンはジャケツを脱ごうとしましたが袖が裏返しになってしまい、そのとき女房が引っぱったものですから、縫い目がぴりぴりと破けてしまいました。

マトリョーナはその破れたジャケツをひったくるとそのまま外へ出て行こうとしましたが、立ち止まりました。


 マトリョーナは心のうちで迷ってしまったのです。もっと当り散らしても見たかったし、この男の正体を知りたくもあったからです。


“人はなんで生きるか” -4 

マトリョーナは立ち止まってこう言いました。

「まともな人間ならなんで裸でいるんだね。

シャツ一枚着ていないじゃないか。お前さんだって、いいことをしたんなら、どこからこの伊達男を連れてきたのか言っても良さそうなもんじゃないか。」

「だから言おうとしてるじゃないか。おれが歩いていると、礼拝堂のところで、この人がすっかりこごえているじゃないか。

素っ裸でよ。きっと神様のお導きに違いない、それで無けりゃあ死んじまうってもんだ。

さあ、どうするかと考えたけれど、世の中にはどんなことだってあるってもんさ。

それで起こして、着物を着せて連れて来たってわけさ。お前も気を静めてみるがいい、罪だぜマトリョーナ、俺たちだっていつかは死ななきゃあならねえんだから。」

 マトリョーナはののしってやろうと思いましたが、この見知らぬ男をながめている内に黙り込んでしまいました。

男は長いすにすわり込んで身動きもしません。両手を膝の上で組み、首をたれ目を閉じて、何かに締め付けられてでもいるように顔をしかめています。

 セミョーンが言いました。「マトリョーナ、お前には神様がいなさらねえのか?」

マトリョナはこのことばを聞き、また男のほうを見ていましたが、と突然、胸のもやもやが無くなってしまいました。

マトリョーナは戸口から離れ、ペチカのある片すみへ行き、パンと食事の支度をして、言いました。

「おあがんなさいよ、さあ。」

セミョーンも男を引っぱってきて、「もっとこっちへ寄んなさい、お若いの。」

セミョーンは食事を始め、マトリョーナもテーブルの端にすわり、この男をながめています。
 
 そうしているうちに、マトリョーナはその男がかわいそうに思え、何だか好ましく思えてきました。

 と、どうでしょう。男は急に元気が良くなり、しかめ面をやめ、マトリョーナを見てにっこり笑うではありませんか。

 ふたりが食事を終えると、女房は片づけをしながら男にたずね始めました。

「おまえさんどこから来なすったね?」

「私はここの者ではありません。」

「それじゃあ、どうして道ばたなんかにいなすった?」

「それは申し上げられません。」

「だれがおまえさんの着物を取っちまったんかね?」

「神様が私に罰をお下しになったのです。」[

「それで裸で転がってたのかい?」

「そうです。裸で横になって転がっていたのです。

それをセミョーンが見つけてあわれに思って、私に自分の長外套を着せてくださったのです。

それからここへ連れてきてくださいました。

あなたもまた、私に食べさせたり飲ませてくれたり、あわれんでくださいました。あなたがたに神様のお恵みがありますように!」

 マトリョーナはつぎをあてたセミョーンの古いルバーシカとズボン下も捜してきて、男に与えました。

「これを着て高床の上でもペチカの前でも、どこへでも寝るがいいよ。」

男は長外套を脱ぎ、ルバーシカとズボン下を着て、高床に横になりました。

マトリョーナは長外套を取り上げて亭主のそばにもぐりこみました。

 マトリョーナは長外套のすそをかぶって横になりましたが、いつまでも見知らぬ男のことが頭からはなれずなかなか寝つきません。

 あの男が、家に残っていた唯一のパンを食べてしまったので明日のパンが無いことや、ルバーシカやズボン下までやってしまったことを思い出すと気がふさいでくるのですが、にっこり笑った顔を思い出すと、なぜかうきうきしてくるのです。

マトリョーナはなかなか寝つけず、セミョーンも眠れずに長外套を自分の方に引っ張っているようです。

「セミョーン!」

「ああ。」

「あしたのパンの用意がないよ。どうしようかねえ。マラーニャおばさんにでも貸してもらおうかねしら。」

「生きてりゃ、何とかなるさ。」

 女房はしばらくじっとして何も言いませんでした。

「あの人はいい人らしいけど、どうして自分のことを話さないだろうね。」

「言えないわけがあるんだろうさ。」

「セミョーン!」

「ああ。」

「私たちは人にやってばかりで、どうして私たちにはだれもくれないんだろうねえ?」

 セミョーンはなんと答えていいかわからず、「もうこんな話はやめにしようや。」と言って寝返りをうち、そのまま寝てしまいました。


“人はなんで生きるか” -5
翌朝、セミョーンが目を覚ましたとき、子どもたちはまだ眠っていて、女房は隣りにパンを借りに言っていました。ゆうべの男はお古のルバーシカにズボン下姿で長いすに腰掛け、上のほうを見ていました。ですが、ゆうべよりずっと明るい顔をしています。
 セミョーンが声をかけました。
「これからどうするね。腹が減ればパンがいるし、着るものも着なくちゃなるめえ。稼がなくちゃなあ。おまえさん、何ができるかね?」
「私は、何もできないんです。」


 セミョーンはびっくりしましたが、こう言いました。
「やる気さえありゃ、何でも覚えられるさ。」
「みんな働いているのですから、私も働きます。」
「ところでおまえさん、名前はなんといいなさる?」
「なあ、ミハイルよ。おまえさんは自分のことはしゃべりたがらないが、それはまあいいや。でも稼がなくちゃあならないよ。おれの言うとおりに働くなら、食べることは面倒見るよ。」
「ありがとうございます。教わります。どうやるのか教えてください。」

 セミョーンは糸を取ると、指に引っ掛けて結び目をこしらえ始めました。
「面倒なこたあねえ、まあ見ていなせえ。」
 ミハイルはじっと見ていましたが、やがて同じように糸を指に引っ掛け結び目をこしらえ始めました。

 セミョーンは次に皮の煮方を教え、ミハイルはすぐに覚えてしまいました。次は剛毛(あらげ)のより込み方と刺し縫いの仕方を教えましたが、これもすぐに覚えてしまいました。
 セミョーンが何を教えてもミハイルはすぐにのみ込んで、三日目にはまるで一人前のくつ屋のように仕事ができるようになりました。

 背を伸ばすひまもないほど働くのですが、食べ物はほんの少ししか食べません。仕事がひまな時は、あいかわらず黙って上のほうを見つめています。外出はせず余計なこともしゃべらず、冗談一つも言いません。
 ミハイルが笑ったのを見たのは、あの最初の晩、女房が夜食を出してやったときだけです。

“人はなんで生きるか” -6
日一日と過ぎ、一週間、また一週間、またたく間に一年の歳月が流れました。
ミハイルはあいかわらずセミョーンのところに住んで、働いていました。「この職人ミハイルほどきれいでしっかりしたくつを縫うものはいない。」という評判がたち、近在の人々は皆セミョーンのところにくつを注文に来るようになりました。おかげでセミョーンの収入も多くなりました。

 冬のある日、通りから鈴の音がするので、仕事をしていたセミョーンとミハイルが窓からながめていると、三頭立ての箱ぞりが店の前に止まりました。御者台から若者がとびおりてきて箱ぞりの戸を開けました。中から毛皮外套を着ただんなが降りてきました。そのだんなは背をかがめながら店に入り、背を伸ばすと天井に頭がつかえるほどの大男です。
 セミョーンは立ち上がってお辞儀をしましたが、驚いてだんなを見ていました。今までこんな大きな人を見たことがなかったからです。自分はひょろっとしているしミハイルはやせており、マトリョーナは乾いた木屑のようにやせこけていて、この人が別の世界から来た人間のように思えてきたのです。顔は醜く赤みを帯びてテカテカしているし、首は雄牛のように太く、からだ全体は鉄ででもできているようです。

 だんなはセミョーンの前に進み出て言いました。
「くつ屋のあるじはおるか?」
 セミョーンは前へ出て言いました。
「てめえでございます、だんな様。」
だんなは下男に怒鳴りつけました。「おーい、あの皮をここへもってこい。」
下男は走って行き、包みを持ってきました。下男に包みをほどかせると、だんなはくつ用の皮を指差しながら、セミョーンに言いました。
「おいくつ屋、この皮がどんなものかってわかるかね?」
 セミョーンはじっくりながめて言いました。
「上等な皮でございます。」
「あたりめえだ!ばか者めが。おまえなんぞ、こんな皮にお目にかかったこともなかろうが。ドイツ製で、20ルーブルもするしろものだぞ。」
 セミョーンはすっかりおじけづいてしまいました。
「私なんぞが見られるわけがございません。」
「そうだろうとも、ところでこの皮でわしのくつが作れるか?」
「へえ、できますで、だんな様。」
 だんなはセミョーンを怒鳴りつけました。
「『できますで』だと。一年間歩き回っても型がくずれず糸一本切れないくつを作ってもらいたいんだぞ。
できると思うなら、引き受けて皮を裁断しろ。見込みがなければ引き受けるな。もしも一年たたないうちに縫い目が切れたり型崩れしたら、おまえを牢へぶち込んでやるぞ。そのかわり、一年たってもなんでもなかったら、そのときは10ルーブル払ってやろう。」

 セミョーンはおじけづいてなんと答えていいかわかりません。ミハイルのほうを振り向いて肘でつつくと、小声で言いました。
「兄弟、どうしようか?」
 ミハイルは《引き受けなさい》というふうに、うなずいて見せました。
 セミョーンはミハイルの意見を聞いて、一年間型もくずれず、縫い目も切れない長ぐつを作ることを引き受けました。
 だんなは下男を呼びつけ、くつを脱がせるように言いつけると、足を伸ばしました。
「寸法を取ってくれ!」
 セミョーンは45センチほどに紙を継ぎ合わせて、寸法を取りにかかりました。ところがふくらはぎが丸太のように太く、紙の両端が合いません。
「いいか、胴皮のところが窮屈でないようにな。」 
 セミョーンは、また紙を継ぎ合わせにかかりました。だんなはすわったまま、くつしたの中で指をもぞもぞさせながら、部屋の中を見回していましたが、ミハイルを見ると、
「この男は何者だ?」とたずねました。
「これは腕利きの職人でして、この男が縫うのでございます。」
「いいか、一年間はちゃんともつくつを作るってことを、おまえも忘れるなよ。」とミハイルに言いました。

 セミョーンがミハイルを見ると、ミハイルはだんなの顔を見ないで、まるで他の誰かを見つめているかのように、だんなの後ろのすみをじっと見据えていました。
 ミハイルは飽きるほどながめていましたが、急ににっこり笑うと、からだ全体がぱっと明るくなりました。
「きさま、何をニヤニヤしやがるんだ、馬鹿めが!それより、期限どおりにちゃんとやるんだぞ!」
ミハイルは言いました。
「お入り用になるまでには間に合わせます。」
「よしよし。」
 だんなは長ぐつをはき、毛皮外套で身を包むと、戸口のほうへ歩き出しました。ところが、身をかがめることを忘れてしまったので、戸口の鴨居に頭をぶつけてしまいました。
 だんなは口汚くののしって、頭をさすりながら箱ぞりに乗り込み、行ってしまいました。

 だんなが出て行くと、セミョーンが言いました。
「なんて丈夫な人だ。この金づちでも殺せやしないよ。もう少しで鴨居をこわしてしまうところなのに、たいして痛そうでもないんだからなあ。」
マトリョーナも言いました。
「あんな結構な暮らしをしていたら、太らないわけがないさ。死神でもあんな頑丈な人には寄りつかないよ。」

“人はなんで生きるか” -7
そこで、セミョーンはミハイルに言いました。
「引き受けるには引き受けたが、悪いことにでもならきゃいいが。何しろ、皮は上等だしだんなは怒りっぽい。まちげえがないようにしなくちゃあ。それでだ、おまえのほうが目もいいし、腕もおれよりよくなったことだで、寸法を測って皮を切ってくれ。おれはこの表皮のほうをやることにするよ。」
 ミハイルは言われたとおりに皮をテーブルの上に広げ、ナイフで裁ち始めました。
 
 マトリョーナはミハイルの仕事を見ていましたが、わけのわからないことをやっているので驚きました。ミハイルは長ぐつを作るようには切らないで、丸く切っているではありませんか。
 マトリョーナは注意しようかよ思いましたが、《きっと私が長ぐつの作り方を知らないに違いない。余計な口出しはしないほうがいい》と思い直しました。
 ミハイルは皮を切ってしまうと、糸を取り、長ぐつのように二重でなく、スリッパのように一重に縫い始めました。
 
 昼食の時間にセミョーンが立ち上がりミハイルの手もとを見ると、あのだんなの皮で、一足のスリッパができ上がっているではありませんか。
 セミョーンはあっと声をあげてしまいました。《これはいったいどうしたことだ》と考えました。《ミハイルは1年の間、一度も間違えたことはなかったのに、今度に限ってこんなことをしでかしたんだ?だんなは縁のあるしゃれた長ぐつを注文したのに、なんだってスリッパなんて縫っちまったんだ。おれはいったい、だんなに何て申し訳を言ったらいいんだろう?》
 そしてミハイルに言いました。
「なんてことをしでかしてくれたんだい。おまえのおかげでわしは破滅だ!だんなは長ぐつを注文したちゅうのに、おまえは何を縫っちまったんだ?」

 セミョーンがミハイルに小言を言い出したその時、だれかが戸をたたきました。窓からのぞくとだれかが馬で乗りつけて、戸口につないでいます。戸を開けると、あのだんなの下男が入ってきました。
「こんにちは!」
「こんにちは。何かご用で?」
「長ぐつのことで、奥様のお使いに来たんだ。」
「長ぐつのことだって?」
「あの長ぐつのことさね、だんなには、もういらなくなっちまったんだ。だんなは亡くなっちまったのさ。」
「なんだって!」
「ここからうちまで帰りつかないうちに、そりの中で死んじまっただ。家に着いてそりの戸を開けたら、だんなは俵みたいに転がっていなすった。もう硬くなりかけてて、死んで転がってたってわけさ。それでやっとそりから運び出しただ。
そんなわけで、奥様がおれを使いに出したのさ。奥様がおっしゃるには、『おまえ、くつ屋にこう言っておくれ。さっきうちのだんなが長ぐつを注文して皮を置いていったけれど、もう長ぐつはいらないから、代わりに死人にはかせるスリッパを大急ぎで作っておくれって。おまえ、そのスリッパができるまで待っていて、持って帰って来ておくれ。』ってな。それでやって来たんだ。」

 ミハイルはテーブルの上から余った皮を取ると、一巻きに巻き、できあがっているスリッパを揃えてパンパンと打ち合わせ、前掛けできれいに拭いてから下男に渡しました。下男はスリッパを受取って、言いました。
「さようなら親方!ごきげんよう。」

“人はなんで生きるか” -8
また一年が過ぎ二年がたちました。ミハイルはもう六年もセミョーンのところで過ごしました。あいかわらずどこへも出かけず余計なこともしゃべりません。この六年の間に笑ったのもたった二度だけです。一度は女房が食事の支度をしてやったとき、もう一度は長ぐつを注文しにだんなが来たときです。それでもセミョーンはミハイルがいることにご満悦で、今では、彼がどこかへ出て行ってしまわないか、というが心配の種でした。
 
 ある日のこと、子どもたちは長いすの上を飛び回ったり窓から外をながめたりしています。セミョーンは窓のそばでくつを縫い、セミョーンは別の窓のそばで、かかとを打ちつけています。
 男の子がミハイルのところに駆け寄り、彼の肩につかまって窓の外を見て言いました。
「ミハイルおじさん、ちょっと見て。店屋のおばちゃんが女の子をふたり連れてうちへ来るらしいよ。だけどひとりの子は片足を引きずっているよ。」
 ミハイルはこのことを聞くと仕事を放り出して窓のほうを向き、通りに目をやりました。
 セミョーンはびっくりしました。ミハイルは今まで一度だって通りを見たこともなかったのに、今度は窓にしがみついて、何かをじっと見ているからです。そこでセミョーンも窓の外をながめました。すると、確かに、こざっぱりした身なりの女の人が、毛皮外套と木綿の厚いプラトーク(ネッカチーフのようなもの)にくるまったふたりの女の子の手を引いて、こちらにやってきます。女の子は見分けできないほどよく似ていますが、ひとりの子は不自由な左足を引きずって歩いていました。
 
 女の人は入り口の階段を上り、戸口の取っ手を引っ張り戸を開け、ふたりの女の子を先にたて部屋に入りました。
「こんにちは、みなさん。」
「どうぞこちらへ。何のご用で?」
 女の人はテーブルのそばに腰を下ろし、ふたりの女の子はその膝にしがみついています。人見知りをしているようです。
「この子たちに、春にはかせる皮のブーツをこしらえてやろうと思いましてね。」
「よろしゅうございます、何でもできますとも。皮で縁をつけるのでも、布で折り返しをつけるのでもできます。ほれ、このミハイルが何でもじょうずにやってくれますんで。」
 セミョーンがミハイルを振り返ると、ミハイルは仕事をほっぽりだしてすわったまま、女の子から目を放そうともしません。
 セミョーンは驚きました。なるほどふたりとも目が黒くふっくらしていて、頬はほんのり赤みをさし、とてもかわいい女の子です。ですが、セミョーンには、ミハイルがまるでふたりの女の子を以前から知っているかのように、じっと見ているのがどうしてかわかりません。

 セミョーンは不思議に思いながらも、女の人と値段の交渉を始めました。値段はすぐに決まり、採寸することになりました。女の人は、足の悪い女の子を膝の上に抱き上げ、こう言うのでした。
「この子の足で、ふたり分の寸法を採ってくださいな。曲がっている足のほうは一つ、まっすぐな足の方ので三つ作ってくださればいいんです。二人とも足の大きさは同じなんです。双子なもんですから。」
 セミョーンは寸法を採ってしまうと、足の不自由な子のほうを見ながら言いました。
「このお子さんはどうしなさすったね?生まれつきかね?」
「いいえ、母親がやっちまったんですよ。」
 
 その時、マトリョーナが口を出しました。この女の人や子どもたちがどんな人たちなのか知りたくなったからです。
「じゃ、あんたはこの子達のおっかさんじゃないんだね?」
 「私はこの子達の母親でも親戚でもありません。まったくの赤の他人なんです。養い子なんですよ。」
「自分の子どもでもないのに、ようまあ、かわいがりなさること!」
「かわいがらずにいられません。ふたりとも私のお乳で育てたんですもの。私には子どもがあったんですが、死んでしまいましてね。でも、この子達ほどにはかわいがりませんでしたよ。」
「じゃあ、この子たちは誰の子どもなんですか?」


“人はなんで生きるか” -9
 
女の人は、また話し始めました。
「もう6年も前のことです。この子たちはたった1週間のうちにみなし子になってしまいましてねえ。
父親を火曜日に亡くし、金曜日には母親まで死んでしまいました。 その頃私は主人と百姓をして暮らしておりまして、この親子とは隣同士で住んでいました。
 この子たちの父親は身寄りのない百姓で、森で働いておりました。ある日、どうしたことか気が倒れかかって、まともに腹に当たって内臓まで飛び出してしまう始末でしたよ。ところが、おかみさんはその週の内にふたごを生みましてね。それがこの子たちなんですよ。貧乏で頼る者もおらず、ひとりぼっちでしてね。ひとりで生んでひとりで死んでいきました。

 私がお隣に見舞いに行ったのは、その翌朝のことでしてね、小屋へ入ってみると、かわいそうにおかみさんはもう硬くなっていました。ところが、息を引取るときにでもこの子の上へ転がったんでしょう、それ、ここにのしかかっちまったもんで、足を曲げてしまったんですよ。
 それから村の衆が集まって、棺おけを作ったりして葬ってあげました。みんないい人たちでね。そんなわけで、子どもたちが後に残され、どこへやったらいいものだろうかってことになりましてね。
 ところが、近在で女たちの内で子持ちは私だけだったんですよ。生まれて二月になる、初めての男の子に乳をやっていました。それで、とりあえずということで私がこの子たちを預かりました。
 それからお百姓たちが集まって、この子たちの身の振り方を考えたんですがね、結局私にこう言うんですよ。『なあマトリア、おまえさんが当分この子たちを預かってくれまいかねえ。そのうちにわしらで何とか考えるから。』ってね。

 それで、ほんの一時のことですがね、満足なほうの子にだけ乳をやって、この足の悪いほうの子にはやらなかったんですよ。いえね、この子はとても生きてはいけまいって考えたんですよ。
 でもね、なんて天使みたいな子なんだろうって思い、急にかわいそうになっちまいました。それからは私のひとり息子とこの子たちに乳をやり始めて、いっぺんに3人育てたんですよ。まだ若かったし力もありました。食べ物も良かったんですね。お乳も、乳房にあふれるほど神様が恵んでくださいました。
 
 こうして神様は、この子たちを育てさせて下さいましたが、私の息子は二つのときに葬らなければなりませんでした。その後はもう神様は子どもを恵んでは下さいません。でも、財産は増え始めましてね。、今はこの町の商人の持っている製粉所で暮らしています。収入もあるし暮らしは楽なんですよ。
 ところが子どもがおりませんでしょう。もし、この子たちがいなかったら、ひとりでどうやって暮らしていけるでしょう。・・・ですもの、どうしてこの子たちをかわいがらずにいられるでしょう!私にとってはかけがいのないものなんですよ!」

 女の人は、片手で足の不自由な子をしっかり抱きしめ、もう一方の手で、頬に流れる涙をぬぐいました。

 マトリョーナもため息をつき、こう言いました。
「昔の人はうまいこと言ったもんですねえ、『親はなくとも子は育つ、神がなくては生きてゆけぬ。』ってね。」
 ふたりはこうしてしばらく話していましたが、やがて女の人が腰をあげました。亭主とおかみさんは女の人を見送ってしまってから、ミハイルを見ました。
 するとミハイルは、すわったまま膝の上に手を組んで、上のほうを見つめながら、ひとりでにこにこしていました。


“人はなんで生きるか” -10
 セミョーンはミハイルのそばへ行って声をかけました。「ミハイル、おまえ、どうしたんだね!」
 ミハイルは長いすから立上がり、仕事を片付け、前掛けを取ると、親方とおかみさんにお辞儀をして、こう言いました。
「おふたりとも、どうぞ私をお赦しください。神様が私をお赦しくださいました。あなたがたも私をお赦しください。」

 夫婦は、ミハイルの背後から光がさしているのが見えました。
と、セミョーンが立上がり、ミハイルにお辞儀をして言いました。
 「ミハイル、わしはおまえさんがただの人間でないことも、引き止めることもできないってことも、何も聞いちゃあいけないこともわかっているよ。だけども、ひとつだけ聞かして下せえ。
 わしがおまえさんをうちへ連れてきたとき、おまえさんはむずかしい顔をしていたけれど、女房が夜食を出してあげたら、おまえさんはにっこり笑いなすった。あれから顔つきも明るくなった。あれはいったいなぜかね?
 その後にも、ほれ、だんなが長ぐつを注文に来たときも、またにっこり笑いなすった。それに顔つきももっと明るくなった。あれはなぜかね?
 それに今さっき、あの女の人が子ども連れてやって来たときにも、またにっこり笑って、今度はからだ中が明るくなった。
 ミハイル、どうか話して下せえ。何でおまえさんからあんな光が出るんだね?それにどうしておまえさん、三度にっこりなすったね?」


 そこで、ミハイルが話し出しました。
「私の体から光が出たのは、私は今まで神様の罰を受けていたのですが、今、それが赦されたからです。
 それから、私が三度笑ったのは、神様の三つのことばの意味を理解しなければならなかったからです。ですが、私は神様のことばがわかりました。

 一つ目のことばの意味がわかったのは、あなたのおかみさんが私をかわいそうに思ってくれたときでした。その時、私は初めて笑ったのです。
 もう一つのことばの意味がわかったのは、金持ちが長ぐつを注文しに来たときでした。その時、私はまた笑いました。
 そして今しがた、ふたりの女の子を見たときに、最後の、三つ目のことばの意味がわかりました。
 それで、私はもう一度笑ったのです。」


 すると、セミョーンがまた言いました。
「ミハイル、どうして神様がおまえさんに罰をお下しになったのかね?それに、神様のおことばを、わしに教えて下さらんか?」

 そこで、ミハイルが言いました。
「神様が私に罰をお下しになったのは、、私が神様の言うことをきかなかったからです。私は天にいる御使いだったのですが、神様の言うことをきかなかったのです。
 私は御使いでした。ところが、神様がひとりの女の魂を抜いてくるように、私を地上へお遣わしになったのです。すると、あるおかみさんが病気で寝ていました。ふたごの女の子を産んだところでした。赤ちゃんは母親の脇でもぞもぞしていますが、母親はもう、乳房まで抱き寄せることもできません。
 おかみさんは私を見ると、神様の使いが魂を抜きに来たのだと気がついて、泣きながらこう言いました。


『御使い様!私の夫はつい先ごろ、葬られたばかりです。森の中で木に打たれて死にました。私には姉妹もなければ、おばさんもおばあさんもおりません。だから、この子たちを育てるものがだれもおりません。ですから、私の魂を取らないで下さい。私の手でこの子たちを育てさせて下さい。ひとり立ちできるまで、乳をやらせて下さい。父親も母親もいなければ、子どもたちは生きていけません!』


 そこで、私は、母親の言うことをきいて、ひとりに乳房をふくませ、もうひとりを母親の腕に抱かせておいて、天の神様のところへのぼっていきました。
 神様のおそばへ飛んで帰ると、私はこう申したのです。
『私には、子どもを生んだばかりの女の魂を抜き取ることはできません。父親は倒れた木の下敷きで死んでしまいましたし、母親はふたごを生んだばかりで、どうか魂を抜き取らないで下さいと祈って、こう言うのです。私の手でこの子たちを育てさせて下さい。ひとり立ちできるまで乳をやらせて下さい。父親も母親もいなかったら、子どもたちは生きていけません。それで私はその母親から魂を抜き取ることができなかったのです。』

 すると、神様はおっしゃいました。

 『行って、その女の魂を抜き取ってきなさい。そうすれば、三つのことばの意味がわかるだろう。 つまり、
 人間の心の中に何があるか、
 人間に与えられていないものは何か、
 人間は何で生きるか、
と、いうことだ。
 それがわかったら、天に帰れるだろう。』

 それで、私はまた地上に戻り、その女の魂を抜きました。
赤ちゃんは乳房から離れましたが、死骸がベッドの上でがっくりしたときに、ひとりの赤ちゃんを押し付けてしまい、片足を曲げてしまったのです。私はその村の上に舞い上がり、魂を神様のところへ持って行こうとしました。
 ところが、いきなり風が起こり、私の翼がだらりとなるとそのまま取れてしまいました。魂だけが神様のところへ行き、私は地上へ落ちてしまったのです。」

   

“人はなんで生きるか” -11
 セミョーンとマトリョーナは、自分たちが着物を着せてやったり食べさせてやって、いっしょに暮らしてきた人がどういう人であったのかがわかり、恐ろしいやらうれしいやらで泣き出してしまいました。

 天使は話を続けました。
 「私はひとりで、裸で野原に残されました。それまで私は人間の不自由さも寒さも飢えも知らなかったのですが、人間になってみると、おなかは減るし寒くもありました。ですが、どうしていいのかさっぱりわかりません。ふと、野原の中に神様のために建てられた礼拝堂が見えました。
 そこで、そばへ行って中へ隠れようとしました。でも、礼拝堂には鍵がかかっていて、中へ入ることができませんでした。しかたなく、風をよけるために礼拝堂の陰にすわっていましたが、日が暮れてきておなかはすき、体はこごえてきました。

 と、だれかの声が聞こえてきました。長ぐつを持ち、歩きながらひとり言を言っています。いつかは死ななければならない人間の顔を見たのは、私が人間になってから、その時が初めてでした。私はその顔がとても恐ろしく思えて、顔をそむけてしまいました。しかし、何を着て冬の寒さをしのごうか、どうやって女房や子どもたちを養おうかなどと、ひとり言を言っているのが聞こえました。 私は考えました。
《私は寒さと飢えとで死にそうなのに、今ここを歩いている人間は、女房と自分が着る毛皮外套のことや、自分たちが食べるパンのことばかり考えている。この人は、とても私を助けちゃくれないだろう》と。
 その人は私を見ると、いっそう怖い顔をして脇を通り過ぎてしまいました。私はがっかりしてしまいました。
 
 ところが、突然、その人の戻ってくる足音がしました。ちょっと見ただけでは、さっきの人とは思えない表情でした。と、言いますのは、さっきの顔には死相が現れていたのに、今度は急に生き生きとしていたからです。そして、私はその顔に、神様の姿を見ました。
 その人は私に近づいて着物を着せてくれ、そして、自分の家に連れていってくれたのです。

 その家に着くと、おかみさんが私たちを出迎え、なにやらしゃべり始めました。おかみさんは、さっきの人よりも恐ろしい顔をしていました。それに、口から出る息は死のにおいがするので、とても臭くて、私は息もできないくらいでした。おかみさんは、私を外に追い出そうと思っていました。でも、私を追い出してしまったら、おかみさんもすぐに死んでしまうことを、私は知っていたのです。

 するとその時です。亭主がおかみさんに神様のことを思い出させました。と、どうでしょう、おかみさんはがらりと人が変わってしまったではありませんか。そして、私に夜食を出してくれると、じっと私を見ていました。私もおかみさんの顔をよく見ていますと、おかみさんの顔から死相が消えて、生き生きとしてきました。そしてまた、そこに神様の姿を見たのです。
 
 その時、私は『人間の心の中に何があるか、わかるであろう。』という神様の第一のことばを思い出しました。そして私は、
人間の心の中にあるものは愛である、ということがわかりました。
 私は、神様が私にお約束なさったことを、もう示して下さったことを、たいへんうれしく思いました。
 それで、初めて笑ったのです。
 ですが、私にはまだすべてがわかったわけではありません。人間に与えられていないものは何か、ということと、人間は何で生きるか、ということがわからなかったからです。

 私は、あなたがたのところで暮らすようになりました。そして一年がたちました。ある日のこと、ひとりの男がやってきて、一年間歩き回っても型がくずれず、糸一本切れない長ぐつを注文しました。私がその男を見ていると、その男の背中に、私の仲間の、死の天使の姿が目に入りました。そして、この金持ちは日の沈まないうちに死んでしまうだろう、ということもわかりました。
 私は《この男はきょうの夕方までも生きられないのに、一年先のことまで用意しているぞ》と考えていました。その時、私は『人間に必要でないものは何か、わかるであろう。』という、神様のもうひとつのおことばを思い出しました。

 人間の心の中に何があるか、ということは、私はもう知っていました。そして今、私は、人間に与えられていないものは何か、ということがわかりました。
 人間に与えられていないものは、自分の肉体にとって必要なものがなんであるか、を知る能力だったのです。
 そこで私は、また笑いました。私は仲間の天使に会えたことと、神様がもうひとつのことばを私に示してくださったことを喜びました。

 しかし、これでもまだすべてがわかったわけではありません。私はまだ、人間は何で生きるか、ということがわかりませんでした。私は日々を送りながら、神様が最後のおことばを示してくださるのを待っていました。
 はたして、六年目に女の人がふたごの女の子を連れてやってきました。私はその女の子たちを知っていました。そして、その子たちがどのように生きてきたかを知りました。このことを知って考えました。
 《母親が私に、子どもたちのために頼んだとき、私はそれを真に受けてしまった。父親も母親もいなかったら子どもたちは生きていけないと考えてしまったが、こうして、母親でもない女の人が乳をやって育ててくれたではないか。》
 
 その女の人が他人の子どもたちのことを思い、泣き出してしまった時、私はその人の中に生きた神様を見ました。そして私は、人間は何で生きるか、ということがわかりました。こうして、神様が最後のおことばを示してくださり、私を赦してくださったのを知りました。それで、私はもう一度笑ったのです。」

 

“人はなんで生きるか” -12
やがて天使の姿があらわれ、話し始めました。その声は天使の口からではなく、まるで天からくるもののように大きな声でした。

 「私は、すべての人間が、自分のことだけを考え生きているのではなく、愛によって生きているということがわかりました。

 あの母親に与えられていなかったものは、その子どもたちが生きていくために、何が必要であるか、ということを知る能力でした。
 あの金持ちに与えられていなかったものは、自分自身にとって、何が必要であるか、ということを知る能力でした。
 でも、人間には、だれひとりとして、生きているときには長ぐつが必要なのか、その日の夕方までに死んでしまってはくスリッパが必要なのか、ということを知る能力は与えられていません。

 私が人間であったときに生きていけたのは、私が自分で自分のことを考えたからではありません。
通りすがりの人と、そのおかみさんの内に愛があって、私をあわれんで、愛してくれたからでした。
ふたりのみなしごが生きていけたのは、みんながその子たちのことを考えてやったからではありません。
母親でもない女の人のうちに愛があって、その子たちをあわれんでかわいがったからでした。
 だから、すべての人間が生きていけるのは、みんなが自分自身のことを考えているからではなく、人々の心のうちに愛があるからなのです。

 私は、神様が人々に命をお与えになり、人々が生きていくことを望んでいらっしゃることは、以前から知っていました。そして今ではもっと別のこともわかりました。

 私にわかったことといいますのは、神様は、人々がばらばらで生きていくことを望んではいらっしゃいません。そのために、ひとりひとりにとって何が必要であるか、ということはお示しにならないのです。
 そして、神様は、すべての人々が心をひとつにして生きていくことを望んでいらっしゃいます。
だからこそこそ、すべての人々にとって、自分自身のために、またすべての人々のために何が必要であるか、ということをお示しになっているということです。

 自分自身のことを考えて生きていると思っているのは人間だけで、実は、
人は愛によってのみ生きているのだということが、私にはよくわかりました。

 愛の中に生きている人間は、神様の中に生きています。
そして、神様はその人の中に生きておられるのです。
なぜなら、神様は愛だからです。


 天使は神様をたたえる賛美を歌い始めました。すると、その声で部屋が揺れ動きました。
 やがて天井が裂け、地面から天上へと、一本の火柱が立ち上りました。セミョーンと女房と子どもたちは、地面にひれ伏しました。天使の背中に翼がはえたと見る間に、天高くのぼっていってしまいました。
 
 セミョーンがわれに返ったときには、家はもとのままで、部屋の中には家族のほか、だれひとりもおりませんでした。

 

          おわり

 新約聖書 「ヨハネの第一の手紙」より

 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。  (3章18節)

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな愛から生まれ、神を知っています。
 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(4章7〜9節)

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(4章11〜12節)

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。
(4章20、21節)


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